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    墨の日本への伝来と日本の墨の歴史

    日本への墨の伝来は、一説に文字の伝来と同時期であるといわれています。
    「漢倭奴王国」の金印の示すように、漢の国ではその折に文字や墨書を知ったと思われ、『魏志倭人伝』に239年に卑弥呼が、魏の洛陽に送った使者に親書を持たせ、『晋書』・ 『宋書』には倭の五王(讃・珍・済・興・武)も親書を持たせたとあるように、この頃に十分に筆・墨の存在も考えることができます。しかしながらこれらはあくまでも一説に過ぎず、詳しいことはわかっていません。

    『日本書紀』に 「推古天皇18年(610年) の春3月 高麗の王は僧 曇微(飛鳥時代の高句麗の僧侶) と法定を貢上し、曇微は五経を知り、且つ能く彩色及び紙墨を作る」 とあり、この文献が日本の墨について記した最古のものと思われ、聖徳太子が 『 法華経義疎 』を書いた時には、この曇微の持参した松煙墨が使用され、 飛鳥の都跡から発見された 円硯 の断片から、当時はすでに硯で墨を磨っていたこともわかっています。

    聖徳太子没後の律令政治の実施に伴い、701年大宝律令が制定された政治機構の中で中務省が製墨をつかさどり、墨は貴重品として扱われ、仏教の繁栄に伴った写経用の墨として需要が高まっていきました。
    平安時代になると、墨は大量に生産されるようになり(松煙墨)、一般にも浸透していったといわれています。
    以後高まる墨の需要に伴い、それまでは松煙墨しか存在しなかった時代に先駆けて油煙墨の開発を行ったのは日本でした。

    平安時代に普及した、松煙墨の大量生産と同時期に油煙墨の研究・開発を進め、墨の変遷過渡期を迎えていったと思われます。
    平安時代末期には、日宋貿易も盛んになり、水墨画の伝来や禅僧の墨蹟の隆盛により、日本でも数多くの能書家が誕生し更に墨の需要は高まっていきました。



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